2005年12月06日
「やまのうちかずとよ」じゃないの?
掛川にも関係のある、来年の大河ドラマ「功名が辻」でこんな記事が。
山内一豊の読み「ヤマウチ」に NHK大河 湖北住民に戸惑い:京都新聞 電子版
山内一豊の読み方について、滋賀県側は「やまのうち」、高知県側は「やまうち」が一般的らしい。
では、「功名が辻」での呼び方はどちらに、ということで結局「やまうち」が採用されたらしい。
でも、掛川人の私としては「やまうち」じゃなくて「やまのうち」の方がしっくり来る。
「やまうち かずとよの つま」ってなんか非常に違和感が。
掛川に限らず、遠州地方では「やまのうち」派が多いと思うのだけれども、どうなんだろう?
山内一豊の読み「ヤマウチ」に NHK大河 湖北住民に戸惑い:京都新聞 電子版
山内一豊の読み方について、滋賀県側は「やまのうち」、高知県側は「やまうち」が一般的らしい。
では、「功名が辻」での呼び方はどちらに、ということで結局「やまうち」が採用されたらしい。
でも、掛川人の私としては「やまうち」じゃなくて「やまのうち」の方がしっくり来る。
「やまうち かずとよの つま」ってなんか非常に違和感が。
掛川に限らず、遠州地方では「やまのうち」派が多いと思うのだけれども、どうなんだろう?
それにしても来年の大河「功名が辻」では、滋賀県と高知県がこんな風に切磋琢磨して盛り上がってきている感じがするのだが、山内一豊は掛川藩主時代が10年間と長いのにかかわらず、あまり掛川の話が出てこないのが寂しい限り。
地元はそこそこ盛り上がろうとしているのだが、「功名が辻に何か掛川って関係あるの?」と思われるくらい、スルーされそうで怖い。
確かに「功名が辻」は山内一豊の物語と言うよりも、その妻「お千代さん」が主人公。
一豊自身は10年間と掛川にいた期間は長いのだが、その時期「お千代さん」は、後の参勤交代のはしりとなる人質制度のため、京都で暮らしていたそうなので、あまり掛川にはなじみがないのかもしれない。
司馬遼太郎の原作「功名が辻」でも、一豊の掛川時代としては文庫の第三巻がその時期となるのだが、ほとんど掛川のエピソードがない。
掛川で、「功名が辻」「功名が辻」といっている割には、盛り上がらずに終わってしまう可能性もあるかな。
それでもせっかくの機会、「功名が辻」で掛川が盛り上がると良いな。
地元はそこそこ盛り上がろうとしているのだが、「功名が辻に何か掛川って関係あるの?」と思われるくらい、スルーされそうで怖い。
確かに「功名が辻」は山内一豊の物語と言うよりも、その妻「お千代さん」が主人公。
一豊自身は10年間と掛川にいた期間は長いのだが、その時期「お千代さん」は、後の参勤交代のはしりとなる人質制度のため、京都で暮らしていたそうなので、あまり掛川にはなじみがないのかもしれない。
司馬遼太郎の原作「功名が辻」でも、一豊の掛川時代としては文庫の第三巻がその時期となるのだが、ほとんど掛川のエピソードがない。
掛川で、「功名が辻」「功名が辻」といっている割には、盛り上がらずに終わってしまう可能性もあるかな。
それでもせっかくの機会、「功名が辻」で掛川が盛り上がると良いな。
Posted by 深 at 17:15
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この記事へのコメント
もちろん「やまのうちかずとよ」!
「やまのうちかずとよ」が掛川城主だった10年間って、関ヶ原の合戦前の10年ですよね?本人も掛川も表舞台に出てくるようなエピソードが無いのかなぁ?
掛川城は山内一豊の出世城とかは言わないの?掛川と高知との交流とかはないの?盛り上げないとなんだかもったいないよね~。
「やまのうちかずとよ」が掛川城主だった10年間って、関ヶ原の合戦前の10年ですよね?本人も掛川も表舞台に出てくるようなエピソードが無いのかなぁ?
掛川城は山内一豊の出世城とかは言わないの?掛川と高知との交流とかはないの?盛り上げないとなんだかもったいないよね~。
Posted by こやまん at 2005年12月06日 17:52
掛川城と一豊が表舞台に出たエピソードというと、関ヶ原直前にその対応を評議する場において「掛川城をそっくりそのまま徳川軍に差し出します」と進言した場面でしょう。
この進言によって、東海道筋の城主は皆右にならえで、城を放棄。
おかげで東軍は易々と西行でき、関ヶ原の勝利につながった。
言ってみれば一豊は掛川城を放棄することによって、高知城を手に入れたわけだから、掛川城は出世城と言っていいと思います。
ただ、その後一豊が掛川の家来を連れて土佐入りし、元の土佐城主長曾可部の家臣を弾圧したことが、上士(掛川衆)と郷士という土佐独特の身分制度を生み、その遺恨は、幕末まで・・・
といったところ。
高知の人の一部は、未だに「掛川」にあまり良い印象を持っていない人がいるかもしれない。
でも、せっかくの機会、ほんと盛り上げないともったいないですね。
私も、たまにいろいろなブログで「功名が辻」について記事にして、ちょっとは盛り上げているつもり(^^ゞ
この進言によって、東海道筋の城主は皆右にならえで、城を放棄。
おかげで東軍は易々と西行でき、関ヶ原の勝利につながった。
言ってみれば一豊は掛川城を放棄することによって、高知城を手に入れたわけだから、掛川城は出世城と言っていいと思います。
ただ、その後一豊が掛川の家来を連れて土佐入りし、元の土佐城主長曾可部の家臣を弾圧したことが、上士(掛川衆)と郷士という土佐独特の身分制度を生み、その遺恨は、幕末まで・・・
といったところ。
高知の人の一部は、未だに「掛川」にあまり良い印象を持っていない人がいるかもしれない。
でも、せっかくの機会、ほんと盛り上げないともったいないですね。
私も、たまにいろいろなブログで「功名が辻」について記事にして、ちょっとは盛り上げているつもり(^^ゞ
Posted by 深 at 2005年12月06日 18:14
私も同意見です。NHKが後世、一豊は四国で「やまうち」とよばれたから
「やまのうちかずとよ」でなく、「やまうちかずとよ」と呼び名を統一したことは
おかしいのではねいでしょうか。
一豊が家康に「掛川城を提供する」という事が題材の主題である「巧名が
辻」のメインテーマではないでしょうか。
しかも、それは一豊が掛川城主時代の話である、四国ではなかったのに
掛川城主時代はまるでかすっているようで非常にNHKに義憤を感じます。
しかも、一豊の歴史をたどってゆくともとは神奈川県鎌倉の山内荘「
やまのうち}からおこっており、そのあと、尾張国、黒田城主、そして、掛川
城主になっています。
四国では「後世「やまうちかっとよ」と呼ばれたかもしれませんが。おらが
城主「掛川時代は、やまのうちかずとよ公」であった事は事実であります。
なぜ、NHKがこのように時代を歪曲するの野か、また、掛川時代を
軽視するのかわたくもあなたと同感です。
掛川の人々も、もう少し、関心をもっておわが城主「やまのうちかずとよ」
の名前がNHKによって消されないよう頑張りましょう。
後世は後世、しかし掛川s時代は「やまのうち一豊」であったことはいろいろ
な歴史書からみても間違いないと思います。
広くご意見をおまちします、。
「やまのうちかずとよ」でなく、「やまうちかずとよ」と呼び名を統一したことは
おかしいのではねいでしょうか。
一豊が家康に「掛川城を提供する」という事が題材の主題である「巧名が
辻」のメインテーマではないでしょうか。
しかも、それは一豊が掛川城主時代の話である、四国ではなかったのに
掛川城主時代はまるでかすっているようで非常にNHKに義憤を感じます。
しかも、一豊の歴史をたどってゆくともとは神奈川県鎌倉の山内荘「
やまのうち}からおこっており、そのあと、尾張国、黒田城主、そして、掛川
城主になっています。
四国では「後世「やまうちかっとよ」と呼ばれたかもしれませんが。おらが
城主「掛川時代は、やまのうちかずとよ公」であった事は事実であります。
なぜ、NHKがこのように時代を歪曲するの野か、また、掛川時代を
軽視するのかわたくもあなたと同感です。
掛川の人々も、もう少し、関心をもっておわが城主「やまのうちかずとよ」
の名前がNHKによって消されないよう頑張りましょう。
後世は後世、しかし掛川s時代は「やまのうち一豊」であったことはいろいろ
な歴史書からみても間違いないと思います。
広くご意見をおまちします、。
Posted by ハッピー at 2006年01月03日 14:26
>四国では「後世「やまうちかっとよ」と呼ばれた
四国、というか高知、いや土佐では、「やまのうちかずとよ」でなく「やまうちかっとよ」と呼ばれていた、というのは知りませんでした。
なんか土佐らしいな、その呼び方。
まあ、歴史上の人物、こと、あまり注目されてこなかった人物に関しては、その呼称にいろいろな説があるのもよくあることで。
自分自身は「やまのうち」しかなく「やまうち」という呼び方には非常に違和感を感じるのですが、逆に土佐の衆にとっては「やまのうち」といわれたら同じように違和感を感じるのでしょう。
今回の大河に際してNHKがどちらを取るかといろいろ議論があったんじゃないかと思います。
NHKとしても、こちらを立てれば、あちらが立たずと・・・
どちらが正解で、どちらが間違いという話ではない。
結局大河でどちらを取るかはNHKの判断でしかないのですが。
まあ、NHKがなんと言おうとも、私の中では「山内一豊」は「やまのうちかずとよ」なんですけど。
四国、というか高知、いや土佐では、「やまのうちかずとよ」でなく「やまうちかっとよ」と呼ばれていた、というのは知りませんでした。
なんか土佐らしいな、その呼び方。
まあ、歴史上の人物、こと、あまり注目されてこなかった人物に関しては、その呼称にいろいろな説があるのもよくあることで。
自分自身は「やまのうち」しかなく「やまうち」という呼び方には非常に違和感を感じるのですが、逆に土佐の衆にとっては「やまのうち」といわれたら同じように違和感を感じるのでしょう。
今回の大河に際してNHKがどちらを取るかといろいろ議論があったんじゃないかと思います。
NHKとしても、こちらを立てれば、あちらが立たずと・・・
どちらが正解で、どちらが間違いという話ではない。
結局大河でどちらを取るかはNHKの判断でしかないのですが。
まあ、NHKがなんと言おうとも、私の中では「山内一豊」は「やまのうちかずとよ」なんですけど。
Posted by 深 at 2006年01月03日 18:10
皆様はじめまして
実は私の友人が「やまのうち」さんでした。古文の先生が一豊の妻と
その友人を呼ぶので、歴史に興味の無い私も有人に歴史上の人物の祖先が
いるのが嬉しくて、山内一豊に少し興味もちました。(*^。^*)
やっぱり「やまのうちかずとよ」ですよね(*^_^*)
「やまうち」ではしっくり来ません。
それに教科書にも他の本にも書いてあるし、NHKの事情というものの、掛川から始まった一豊様ならやはり「やまのうち」でしょう!!!
NHKは本当に調査をしていたのでしょうか?
やっぱり許せないです。
実は私の友人が「やまのうち」さんでした。古文の先生が一豊の妻と
その友人を呼ぶので、歴史に興味の無い私も有人に歴史上の人物の祖先が
いるのが嬉しくて、山内一豊に少し興味もちました。(*^。^*)
やっぱり「やまのうちかずとよ」ですよね(*^_^*)
「やまうち」ではしっくり来ません。
それに教科書にも他の本にも書いてあるし、NHKの事情というものの、掛川から始まった一豊様ならやはり「やまのうち」でしょう!!!
NHKは本当に調査をしていたのでしょうか?
やっぱり許せないです。
Posted by カズカズ at 2006年01月03日 18:48
京都新聞、NHK大河ドラマ「山内一豊」のよびかたに湖北の住民に戸惑いが
あると書かれています。
私もその事に興味がり、「やまうち」の呼び名に異論を唱えている学者や文庫
書等を何冊か呼んでみました。
時代的からして、「一豊」が、現在の滋賀県である、長浜城主であった時代は
一豊が41歳、西暦1585年頃です。ここで一豊は湖北地震にあい、長女を
地震でなくして失意の時代をおくりました。
そして、それから5年後、1590年に一豊は掛川城の城主になりました。
色々な資料からして、現在の鎌倉「市付近にあたる「やまのうち荘」から
怒った「やまのうち」の祖先が、長浜城、掛川城主に移された時は、やはり
城主様の名称は「やまのうち」であった為、滋賀県の湖北地方の住民に戸惑
いが怒ったと考えるが自然的です。
もし湖北にお住まいの方、もしくは「掛川にお住まいのかたがたで、当時
一豊が「やまのうち」と呼ばれていた、何らかの事実があれば、NHKの日本
国民の声を二分するほどの呼び名を一方的に「やまうち」とはしないでしょう。
もし、これが事実であれば、NHKは後世に大きな歴史上の間違った事実を
伝えることになります。
私は何冊もの「一豊」の書物等を呼んでいるうちに、、2日に放映された
「徳川3代の陰謀」を見ているうちに、今回のNHKの「やまうち」に呼び名を
統一したことに非常に奇異を感じています。
少なくとも、国営であるNHKは、そのような呼び名は、一般的によばれている
名前等を仔細に精査して放映すべきです。
長浜城のあと、、一豊は掛川城主として1590から1601まで掛川に住んで
います。
そして、1601から1606年までが「一豊」が四国土佐ですごしたことになり
ます。
従って、「一豊」が掛川城を差し出して「巧名」の基礎を作ったのも、掛川城
であり、掛川は「一豊「の一生において大きな比重を占めています。
また、巷にいわれるように「千代が名馬を購入する為、10両出してことも
その真実性に乏しい意見も多くあります。
むしり、「千代」の母方がその援助をしたと見るほうが歴史的にもあっていま
す。
これだけ、滋賀県)湖北地方)、静岡県(掛川市)の住民にとっては、かって
の城主であった「やまのうちかずとよ」の名前がNHKの独断で「やまうち」
に決定、それを一年間放映するということです。
NHKの一部担当者だけで、滋賀県湖北地方、静岡県掛川市等の住民の
戸惑いも考えないで、歴史を間違って放映することは、許されないことです。
当時、湖北地方、掛川市等ので当時「一豊」が「やまのうち」と呼ばれていた
なんらかの事実をご存知の方は是非、ここに意見を述べてください。
掛川で功をなした「一豊」が四国のみで名前を挙げ、滋賀県湖北地方、
人生の10年を過ごした掛川等をNHKが軽く判断し、放映することは
やはりいろいろな歴史書、書物からしても、あまりにも一方的なものとしか
写りません。
呼び方に対してNHK内部で何らかの圧力がったとしか思えないのは
私だけでしょうか。
これだけ国民の殆どが「やまのうちかずとよ」と呼び親しんでいるのに
勝手に「やまうち」だけに限定することは非常におかしいとおもいますが
皆様いかがでしょうか?
あると書かれています。
私もその事に興味がり、「やまうち」の呼び名に異論を唱えている学者や文庫
書等を何冊か呼んでみました。
時代的からして、「一豊」が、現在の滋賀県である、長浜城主であった時代は
一豊が41歳、西暦1585年頃です。ここで一豊は湖北地震にあい、長女を
地震でなくして失意の時代をおくりました。
そして、それから5年後、1590年に一豊は掛川城の城主になりました。
色々な資料からして、現在の鎌倉「市付近にあたる「やまのうち荘」から
怒った「やまのうち」の祖先が、長浜城、掛川城主に移された時は、やはり
城主様の名称は「やまのうち」であった為、滋賀県の湖北地方の住民に戸惑
いが怒ったと考えるが自然的です。
もし湖北にお住まいの方、もしくは「掛川にお住まいのかたがたで、当時
一豊が「やまのうち」と呼ばれていた、何らかの事実があれば、NHKの日本
国民の声を二分するほどの呼び名を一方的に「やまうち」とはしないでしょう。
もし、これが事実であれば、NHKは後世に大きな歴史上の間違った事実を
伝えることになります。
私は何冊もの「一豊」の書物等を呼んでいるうちに、、2日に放映された
「徳川3代の陰謀」を見ているうちに、今回のNHKの「やまうち」に呼び名を
統一したことに非常に奇異を感じています。
少なくとも、国営であるNHKは、そのような呼び名は、一般的によばれている
名前等を仔細に精査して放映すべきです。
長浜城のあと、、一豊は掛川城主として1590から1601まで掛川に住んで
います。
そして、1601から1606年までが「一豊」が四国土佐ですごしたことになり
ます。
従って、「一豊」が掛川城を差し出して「巧名」の基礎を作ったのも、掛川城
であり、掛川は「一豊「の一生において大きな比重を占めています。
また、巷にいわれるように「千代が名馬を購入する為、10両出してことも
その真実性に乏しい意見も多くあります。
むしり、「千代」の母方がその援助をしたと見るほうが歴史的にもあっていま
す。
これだけ、滋賀県)湖北地方)、静岡県(掛川市)の住民にとっては、かって
の城主であった「やまのうちかずとよ」の名前がNHKの独断で「やまうち」
に決定、それを一年間放映するということです。
NHKの一部担当者だけで、滋賀県湖北地方、静岡県掛川市等の住民の
戸惑いも考えないで、歴史を間違って放映することは、許されないことです。
当時、湖北地方、掛川市等ので当時「一豊」が「やまのうち」と呼ばれていた
なんらかの事実をご存知の方は是非、ここに意見を述べてください。
掛川で功をなした「一豊」が四国のみで名前を挙げ、滋賀県湖北地方、
人生の10年を過ごした掛川等をNHKが軽く判断し、放映することは
やはりいろいろな歴史書、書物からしても、あまりにも一方的なものとしか
写りません。
呼び方に対してNHK内部で何らかの圧力がったとしか思えないのは
私だけでしょうか。
これだけ国民の殆どが「やまのうちかずとよ」と呼び親しんでいるのに
勝手に「やまうち」だけに限定することは非常におかしいとおもいますが
皆様いかがでしょうか?
Posted by at 2006年01月04日 00:28
調べてみると、「功名が辻」の監修jに静岡大学の小和田哲男氏が関わっていて、この方が「やまうち」読み派のようですね。
NHKはそれにしたがった感じかな。
小和田哲男氏の著書を読めば、「やまうち」の根拠がわかるかもしれませんね。
NHKはそれにしたがった感じかな。
小和田哲男氏の著書を読めば、「やまうち」の根拠がわかるかもしれませんね。
Posted by 深 at 2006年01月04日 15:57
NHK大河ドラマ「やまうちかずとよ」に物申す
1月8日よりNHKの大河ドラマ「山内一豊」が開始されます。しかし、
今回NHKがその呼び名を「やまうち」のみに統一したことにただただ驚きと怒りを感じ、撤回して欲しいと思います。
NHKは一部の大学教授の意見を基に、「やまのうちかずとよ」の呼び名を「やまうちかずとよ」に今後はNHKのデーターを全て統一するということは歴史の全体を冒涜する以外何物でもありません。
現在、高知で「やまうちかずとよ」と呼ばれていることは否定しませんが、それが、歴史の古くから「やまうち」であったという100%の確証はどこにもありません。
ただ、江戸寛政期、一豊がなくなったあと、「やまうち」のふりがなが一つ見つかったから、現在四国では「やまうち」というのが正統である等言う理由のみです。
我が家は「やまのうちかずとよ」の家系を継ぐものです。加来耕三先生、楠木誠一郎先生、川口素生等が書かれている「山内一豊」に関する書物等にもありますように、我が家に残されています先祖以来の家系図には「姓」は藤原から始まり、藤原鎌足→秀郷→俊通→久豊→盛豊(一豊の父、尾張国黒田城主)→一豊(遠州掛川城主、対馬守後移土佐国高知)となっています。
楠木先生の書物「山内一豊とその妻111の謎」、「山内家系図」の家系等と照らし合わせてみると、その家系と我が家とはぴったり合います。
これは我が家が「やまのうちかずとよ」の家系と同一であった証拠と考えます。
しかも、我が家の先祖代々の墓地は「掛川」に残されており、その家系は今なお引き継がれております。しかし、我が家は、「一豊」が土佐に移転した時、なぜか掛川に残り、そのまま「やまのうち」の名前を引き継いで今日に及んでいます。
もう既に亡くなっていませんが、先代の話によると「山内一豊」土佐に
移転した後は「禅宗の高僧」であったような話を聞いた事がありますが、
これは、私が幼い頃に聞いた話ですから、内容については深く理解出来ませんでした。
従って、その後の歴史的な関わり方は知る由がありませんが「やまのうち かずとよ」の家系図が今日まで残されていることは事実です。
「一豊」が土佐に移転した後、土佐では「やまうち」と呼んだかもしれません。しかし、これは、皆様も考えてください「山内」の漢字をそのまま「やまのうち」と呼んでくれる人が国民の何割いるでしょうか」?
多分我が家以外で「山内」という名前で「やまのうち」と呼ばれる方々は同じ経験をされていると思いますが、ほぼ100%の方が「山内」は「やまうち」と呼びます。
毎日の事ゆえ、いちいち「やまのうち」と訂正することが面倒ゆえ、「一豊」自身も土佐の民に「やまうち」でいい旨告げたかもしれません。私も「山内」と他人からよばれれば、そのまま訂正せず「やまうち」の呼び名で受け入れています。
このようにして、いつしか土佐高知では「やまのうち」の名前が
「やまうち」として受け継がれ、今日に及んだという事は充分考えられる事です。
「かずとよ」にしても高知では「かっとよ」の呼び名が普通です。これはどちらかと言えば、ある程度、「方言」に近い呼び名と私は考えます。
実際、四国では「やまうち かっとよ」と呼ばれているそうです。それであれば、NHKもいっそう「やまうち かっとよ物語」と全面的に改めそれで放映すればよかったのではないでしょうか。
NHKと時代考証等に関係した教授の書物によれば、やれ、江戸、寛政期の「寛政重修諸家譜」に1ヶ所「やまうち」の仮名がつけられているから、これをもって「やまうち」呼ぶ名前の根拠にしたとあります。
しかし、寛政期といえば、「一豊」も没して、かなり後世、その1点の証拠をもって、今後は「やまのうちかずとよ」は「やまうちかずとよ」に呼び名を統一するということはNHKの暴挙と考えます。
「やまのうちかずとよ」という名前は今回のNHKの大河ドラマによって全て今後抹殺され、将来にわたって二度とその呼び名を失う事になります。私はこのNHKの暴挙が許せないのであります。皆様はどう思われますか?
過去から長い年月を過ごして築かれてきた「やまのうち かずとよ」の名前をNHKという巨大なメデイアによって、一瞬にして抹殺してほしくないという「叫び」で一杯です。
NHKはせめて、現在は四国で「やまうちかっとよ」と呼ぶが、かっては「やまのうちかずとよ」とも呼ばれていたという注釈でも入れば、まだ、救われます。しかしNHKはよるとさわると時代考証によると講釈します。
しかし、現実を考えれば、その時代考証自体おかしいことにも気付いてください。
例えば、一豊の色々の書物を読んでいると「千代が名馬購入10両」を渡したという説にも諸先生方によって異論があります。そうなると、NHKの今回の「巧名が辻」のクライマックスの話し自体、時代的考証からおかしくなってしまうのではないでしょうか。
これまで日本で一番権威があるとされた「広辞苑」でさえ、「山内一豊」は「やまのうちかずとよ」であったと言い切っています。
そして、国民の大半を越す人間が「やまのうちかずとよ」としてその武将の夢を持っていました。
一豊に関する充分な時代考証の資料は不足しています。「やまのうちかずとよ」が後世四国において「やまうちかずとよ」か「やまうちかつとよ」と呼ばれるようになったとしても、一豊が四国で亡くなるまでは、「やまのうちかずとよ」か「やまうちかずとよ」か100%確証がなかったわけです。
NHKも唐突に国民に親しまれた「やまのうちかずとよ」の呼び名を変えない方が視聴率も上がったのではないでしょうか。
なじみの少ない「やまうちかずとよ」では長浜の住民、掛川の住民はもとより、多くの国民の反発を受けるものと考えます。
また、NHKの今回の独自の判断は、「やまのうち」家歴代の故人に対する冒涜でもあり、他の何人にも許されない事です。
「やまのうち」家の歴史というものは「一豊」が生まれた天文14年(1545年)から始まっているものではありません。NHKが出版している「功名が辻」ガイドブックによると土佐四国の「やまうち」家はあたかも尾張国(一の宮市付近)から始まっているような書き方です。
これも、もし、NHKが主張するように、それ程時代考証にこだわるのであれば、やはり冒頭に述べたように「やまのうちかずとよ」の祖先は遠くは「藤原家」におこり、秀郷、俊通、久豊、盛豊、一豊と繋がっていた家系と考えるべきです。
そして、土佐高知「やまうち」家の遠い祖先が、やはり「藤原」家であった証拠が、天保3年(1832年)、土佐高知に建てらえた藤並大明神と呼ばれる藤並神社にありました。
これは高知「山内」家の祖先がはやり古くは「藤原」の出身であったことを証明するものであります。NHKがガイドブックに書くように土佐「やまうち」が尾張国(現在の一の宮付近)から始まったという理屈にはなりません。
土佐移転後、「やまうち」に変化したことを、今問題にしているのではありません。
従って、土佐四国で、一豊が亡くなった後「やまうち」と呼ばれたから「山内一豊」の呼び方は全て「やまうち」と決定したという理論は、藤原氏から始まる「やまのうち」の歴史そのものを抹殺するというNHK独自の暴挙と考えます。
12月6日、京都新聞電子版にNHK大河ドラマ「やまうちかずとよ」に湖北の住民に「とまどい」という記事がありました。
そして、長浜市で開催されたイベントでも「一豊」は「やまうち」でなく「やまのうち」だということで場内が紛糾、司会者はあえなく「やまのうち」に呼び名を変えてイベントを続けたとありますが、充分納得出来ます。
少なくとも、一豊は戦国時代から安土桃山を生きた武将、長岡城主時代には「やまのうちかずとよ」と呼ばれていたと考えるのが一般的でしょう。その後、一豊は天正18年(1590年)掛川城主となります。そして、慶長5年(1600年)関が原の合戦後、土佐高知の城主に転移されました。
遠州、掛川の出身である我が家も漢字は「山内」」であっても呼び名は「やまのうち」です。そして、家系図に関しては冒頭に述べたとおりです。
NHKが一部の大学教授の意見を基に、その当事者である「やまのうちかずとよ」の名前を全面的に否定、今後、歴史から完全に活殺されることは、私の力無さを祖先に対しても申し訳なく考え、その苦しさと悔しさをどこにぶっつけていいか分からず、長く自分自身で悩んでいました。しかし、「サイトに出してみたら」きっと共感する方々が出てくるといわれて、勇気を出して真実を今日ここに発表いたします。
皆様の暖かいご支援、ご意見をお待ちいたします。
1月8日よりNHKの大河ドラマ「山内一豊」が開始されます。しかし、
今回NHKがその呼び名を「やまうち」のみに統一したことにただただ驚きと怒りを感じ、撤回して欲しいと思います。
NHKは一部の大学教授の意見を基に、「やまのうちかずとよ」の呼び名を「やまうちかずとよ」に今後はNHKのデーターを全て統一するということは歴史の全体を冒涜する以外何物でもありません。
現在、高知で「やまうちかずとよ」と呼ばれていることは否定しませんが、それが、歴史の古くから「やまうち」であったという100%の確証はどこにもありません。
ただ、江戸寛政期、一豊がなくなったあと、「やまうち」のふりがなが一つ見つかったから、現在四国では「やまうち」というのが正統である等言う理由のみです。
我が家は「やまのうちかずとよ」の家系を継ぐものです。加来耕三先生、楠木誠一郎先生、川口素生等が書かれている「山内一豊」に関する書物等にもありますように、我が家に残されています先祖以来の家系図には「姓」は藤原から始まり、藤原鎌足→秀郷→俊通→久豊→盛豊(一豊の父、尾張国黒田城主)→一豊(遠州掛川城主、対馬守後移土佐国高知)となっています。
楠木先生の書物「山内一豊とその妻111の謎」、「山内家系図」の家系等と照らし合わせてみると、その家系と我が家とはぴったり合います。
これは我が家が「やまのうちかずとよ」の家系と同一であった証拠と考えます。
しかも、我が家の先祖代々の墓地は「掛川」に残されており、その家系は今なお引き継がれております。しかし、我が家は、「一豊」が土佐に移転した時、なぜか掛川に残り、そのまま「やまのうち」の名前を引き継いで今日に及んでいます。
もう既に亡くなっていませんが、先代の話によると「山内一豊」土佐に
移転した後は「禅宗の高僧」であったような話を聞いた事がありますが、
これは、私が幼い頃に聞いた話ですから、内容については深く理解出来ませんでした。
従って、その後の歴史的な関わり方は知る由がありませんが「やまのうち かずとよ」の家系図が今日まで残されていることは事実です。
「一豊」が土佐に移転した後、土佐では「やまうち」と呼んだかもしれません。しかし、これは、皆様も考えてください「山内」の漢字をそのまま「やまのうち」と呼んでくれる人が国民の何割いるでしょうか」?
多分我が家以外で「山内」という名前で「やまのうち」と呼ばれる方々は同じ経験をされていると思いますが、ほぼ100%の方が「山内」は「やまうち」と呼びます。
毎日の事ゆえ、いちいち「やまのうち」と訂正することが面倒ゆえ、「一豊」自身も土佐の民に「やまうち」でいい旨告げたかもしれません。私も「山内」と他人からよばれれば、そのまま訂正せず「やまうち」の呼び名で受け入れています。
このようにして、いつしか土佐高知では「やまのうち」の名前が
「やまうち」として受け継がれ、今日に及んだという事は充分考えられる事です。
「かずとよ」にしても高知では「かっとよ」の呼び名が普通です。これはどちらかと言えば、ある程度、「方言」に近い呼び名と私は考えます。
実際、四国では「やまうち かっとよ」と呼ばれているそうです。それであれば、NHKもいっそう「やまうち かっとよ物語」と全面的に改めそれで放映すればよかったのではないでしょうか。
NHKと時代考証等に関係した教授の書物によれば、やれ、江戸、寛政期の「寛政重修諸家譜」に1ヶ所「やまうち」の仮名がつけられているから、これをもって「やまうち」呼ぶ名前の根拠にしたとあります。
しかし、寛政期といえば、「一豊」も没して、かなり後世、その1点の証拠をもって、今後は「やまのうちかずとよ」は「やまうちかずとよ」に呼び名を統一するということはNHKの暴挙と考えます。
「やまのうちかずとよ」という名前は今回のNHKの大河ドラマによって全て今後抹殺され、将来にわたって二度とその呼び名を失う事になります。私はこのNHKの暴挙が許せないのであります。皆様はどう思われますか?
過去から長い年月を過ごして築かれてきた「やまのうち かずとよ」の名前をNHKという巨大なメデイアによって、一瞬にして抹殺してほしくないという「叫び」で一杯です。
NHKはせめて、現在は四国で「やまうちかっとよ」と呼ぶが、かっては「やまのうちかずとよ」とも呼ばれていたという注釈でも入れば、まだ、救われます。しかしNHKはよるとさわると時代考証によると講釈します。
しかし、現実を考えれば、その時代考証自体おかしいことにも気付いてください。
例えば、一豊の色々の書物を読んでいると「千代が名馬購入10両」を渡したという説にも諸先生方によって異論があります。そうなると、NHKの今回の「巧名が辻」のクライマックスの話し自体、時代的考証からおかしくなってしまうのではないでしょうか。
これまで日本で一番権威があるとされた「広辞苑」でさえ、「山内一豊」は「やまのうちかずとよ」であったと言い切っています。
そして、国民の大半を越す人間が「やまのうちかずとよ」としてその武将の夢を持っていました。
一豊に関する充分な時代考証の資料は不足しています。「やまのうちかずとよ」が後世四国において「やまうちかずとよ」か「やまうちかつとよ」と呼ばれるようになったとしても、一豊が四国で亡くなるまでは、「やまのうちかずとよ」か「やまうちかずとよ」か100%確証がなかったわけです。
NHKも唐突に国民に親しまれた「やまのうちかずとよ」の呼び名を変えない方が視聴率も上がったのではないでしょうか。
なじみの少ない「やまうちかずとよ」では長浜の住民、掛川の住民はもとより、多くの国民の反発を受けるものと考えます。
また、NHKの今回の独自の判断は、「やまのうち」家歴代の故人に対する冒涜でもあり、他の何人にも許されない事です。
「やまのうち」家の歴史というものは「一豊」が生まれた天文14年(1545年)から始まっているものではありません。NHKが出版している「功名が辻」ガイドブックによると土佐四国の「やまうち」家はあたかも尾張国(一の宮市付近)から始まっているような書き方です。
これも、もし、NHKが主張するように、それ程時代考証にこだわるのであれば、やはり冒頭に述べたように「やまのうちかずとよ」の祖先は遠くは「藤原家」におこり、秀郷、俊通、久豊、盛豊、一豊と繋がっていた家系と考えるべきです。
そして、土佐高知「やまうち」家の遠い祖先が、やはり「藤原」家であった証拠が、天保3年(1832年)、土佐高知に建てらえた藤並大明神と呼ばれる藤並神社にありました。
これは高知「山内」家の祖先がはやり古くは「藤原」の出身であったことを証明するものであります。NHKがガイドブックに書くように土佐「やまうち」が尾張国(現在の一の宮付近)から始まったという理屈にはなりません。
土佐移転後、「やまうち」に変化したことを、今問題にしているのではありません。
従って、土佐四国で、一豊が亡くなった後「やまうち」と呼ばれたから「山内一豊」の呼び方は全て「やまうち」と決定したという理論は、藤原氏から始まる「やまのうち」の歴史そのものを抹殺するというNHK独自の暴挙と考えます。
12月6日、京都新聞電子版にNHK大河ドラマ「やまうちかずとよ」に湖北の住民に「とまどい」という記事がありました。
そして、長浜市で開催されたイベントでも「一豊」は「やまうち」でなく「やまのうち」だということで場内が紛糾、司会者はあえなく「やまのうち」に呼び名を変えてイベントを続けたとありますが、充分納得出来ます。
少なくとも、一豊は戦国時代から安土桃山を生きた武将、長岡城主時代には「やまのうちかずとよ」と呼ばれていたと考えるのが一般的でしょう。その後、一豊は天正18年(1590年)掛川城主となります。そして、慶長5年(1600年)関が原の合戦後、土佐高知の城主に転移されました。
遠州、掛川の出身である我が家も漢字は「山内」」であっても呼び名は「やまのうち」です。そして、家系図に関しては冒頭に述べたとおりです。
NHKが一部の大学教授の意見を基に、その当事者である「やまのうちかずとよ」の名前を全面的に否定、今後、歴史から完全に活殺されることは、私の力無さを祖先に対しても申し訳なく考え、その苦しさと悔しさをどこにぶっつけていいか分からず、長く自分自身で悩んでいました。しかし、「サイトに出してみたら」きっと共感する方々が出てくるといわれて、勇気を出して真実を今日ここに発表いたします。
皆様の暖かいご支援、ご意見をお待ちいたします。
Posted by 一豊様 at 2006年01月07日 16:48
私は島根県に生まれ、大阪で子供時代を過ごし、今は京都に住んでいますが、今まで「山内一豊」を「やまうち」と呼んでいるのをテレビでも書物でも見たことがありません。
NHKの大河ドラマの予告を見るたびに「なぜやまのうちではないのか」と思い、その説明がされないかと見ていたのですが、NHKはそのことには何も触れず、気持ちの悪い思いをしていたのでインターネットで「やまのうち」と検索してみました。テレビでは何の疑問も問題も提示されず、当たり前のように画面が進んでいますが、ここまで読んで、皆さんやはり大いに疑問や憤慨を感じておられるようで、「やっぱり」という思いです。
山内一豊のことも妻の金で名馬を買い出世した、というくらいしか知りませんが、歴史的なことを知らなくても、「やまのうちかずとよの妻」といえばもう内助の功の代名詞、というかことわざか故事成語のような感覚でみなさん思われているのではないでしょうか。それほど一般的には「やまのうち」で通っているものを、わざわざ時代考証だからと見ているものからしたら「ことわりもなく」、「やまうち」として放映するのは、納得できませんね。
何より、これから1年間違和感のある「やまうち」を聞きながらドラマを見ることはできないと思います。(高知の人はまた違うでしょうけど)
今日から放映ですので、もうそれは変えることは出来ないのでしょうか。たぶん私は見ないと思いますが、テレビ以外でも「やまうち」が一般的になるのは許せないと思います。
NHKの大河ドラマの予告を見るたびに「なぜやまのうちではないのか」と思い、その説明がされないかと見ていたのですが、NHKはそのことには何も触れず、気持ちの悪い思いをしていたのでインターネットで「やまのうち」と検索してみました。テレビでは何の疑問も問題も提示されず、当たり前のように画面が進んでいますが、ここまで読んで、皆さんやはり大いに疑問や憤慨を感じておられるようで、「やっぱり」という思いです。
山内一豊のことも妻の金で名馬を買い出世した、というくらいしか知りませんが、歴史的なことを知らなくても、「やまのうちかずとよの妻」といえばもう内助の功の代名詞、というかことわざか故事成語のような感覚でみなさん思われているのではないでしょうか。それほど一般的には「やまのうち」で通っているものを、わざわざ時代考証だからと見ているものからしたら「ことわりもなく」、「やまうち」として放映するのは、納得できませんね。
何より、これから1年間違和感のある「やまうち」を聞きながらドラマを見ることはできないと思います。(高知の人はまた違うでしょうけど)
今日から放映ですので、もうそれは変えることは出来ないのでしょうか。たぶん私は見ないと思いますが、テレビ以外でも「やまうち」が一般的になるのは許せないと思います。
Posted by 内山 at 2006年01月08日 12:59
http://katsutoyo.blog44.fc2.com/blog-entry-3.htmlhttp://sans-culotte.at.webry.info/200512/article_4.html
「やまうち」が正しいと思います。
寛政時代に幕府が大名諸々に提出させた「寛政重修諸家譜」には「やまうち」とルビがうたれている。
この時代の藩吏の祐筆が「やまのうち」の「の」を書き忘れたのか、そうであればこの祐筆は切腹ものですね。まず書き忘れは考えれない。
また幕府開闢以前に淀殿腹心の侍女「大蔵郷局」の書状にも「やまうちつしま殿」と書かれているそうな。武将の名前をもし間違えたらこの時代大変な無礼であり、間違えたとは到底考えれない。
加えて山内家では19代当主が「わが家はやまうち」ですと言っている以上はやはり「やまのうち」でなく「やまうち」が正しいと思います。
「やまうち」が正しいと思います。
寛政時代に幕府が大名諸々に提出させた「寛政重修諸家譜」には「やまうち」とルビがうたれている。
この時代の藩吏の祐筆が「やまのうち」の「の」を書き忘れたのか、そうであればこの祐筆は切腹ものですね。まず書き忘れは考えれない。
また幕府開闢以前に淀殿腹心の侍女「大蔵郷局」の書状にも「やまうちつしま殿」と書かれているそうな。武将の名前をもし間違えたらこの時代大変な無礼であり、間違えたとは到底考えれない。
加えて山内家では19代当主が「わが家はやまうち」ですと言っている以上はやはり「やまのうち」でなく「やまうち」が正しいと思います。
Posted by 歴史好きの者 at 2006年01月10日 17:58
歴史好きの者さんへ
この書き方はスレッドとしてルール違反ですよ。
現在生きているものではないので、どちらが正しいと何故いえるのですか?
歴史上ではどちらでもいえるはずです。
何の証拠があって?
もう少し勉強してから書いたほうが良いですよ。
あなたは一豊の関係者なのですか?
削除してください。
この書き方はスレッドとしてルール違反ですよ。
現在生きているものではないので、どちらが正しいと何故いえるのですか?
歴史上ではどちらでもいえるはずです。
何の証拠があって?
もう少し勉強してから書いたほうが良いですよ。
あなたは一豊の関係者なのですか?
削除してください。
Posted by 一豊研究 at 2006年01月10日 22:14
歴史好きの者様
私も一豊研究様の意見に賛成です。
歴史は今はいない人。一人の意見で断言は出来ないものと思いますよ。
それにここでは「やまのうち」説が多いのに、自分の意見を押し付けるのは失礼ですよ。
織田信長は「おだ」と思われていますが「おた」説もありますからね。
遠州は「やまのうち」で良いですよね。
初回のNHKの大河見て思いましたが、今まで大河は大体見ていたけれど。「やまのうち」ではないから、ちょっとおかしい気もするし、私も内山様と同じで絶対見ない!!それになんか出演者もパッとしないし。
やはり原因は「やまうち」にしたからじゃないの?
私も一豊研究様の意見に賛成です。
歴史は今はいない人。一人の意見で断言は出来ないものと思いますよ。
それにここでは「やまのうち」説が多いのに、自分の意見を押し付けるのは失礼ですよ。
織田信長は「おだ」と思われていますが「おた」説もありますからね。
遠州は「やまのうち」で良いですよね。
初回のNHKの大河見て思いましたが、今まで大河は大体見ていたけれど。「やまのうち」ではないから、ちょっとおかしい気もするし、私も内山様と同じで絶対見ない!!それになんか出演者もパッとしないし。
やはり原因は「やまうち」にしたからじゃないの?
Posted by KAZUさま at 2006年01月10日 22:24
あの~、ここは掲示板ではなくてブログのコメント欄なのですが。
いや、いろいろなご意見を寄せていただくことはありがたいですし、とても勉強になります。
記事に書いたように、私自身は「やまうち」ということに関しては違和感を感じますが、それに対していろいろな意見があって良いと思うのですが、感情的になっている方もいるようで。
もう少し冷静にいきませんか?
いや、いろいろなご意見を寄せていただくことはありがたいですし、とても勉強になります。
記事に書いたように、私自身は「やまうち」ということに関しては違和感を感じますが、それに対していろいろな意見があって良いと思うのですが、感情的になっている方もいるようで。
もう少し冷静にいきませんか?
Posted by 深 at 2006年01月10日 23:10
「やまのうち」か「やまうち」の呼び名で世間は二分して言うように思える。自分にとっては「やまのうち」も「やまうち」も両方とも正しいと考えるのが一番常識的と思う。
理由?
HP「山内一豊・アッパー」にも掲載されている文章がある。「やまのうち」の呼び方で「の」をいれたのは「偉い方」の出身だったのだろう。
これにうなずける。
歴史好きの私も、いろいろな作家の「山内一豊と妻」等に関する物語を読んだ。
「山内」家の出身は遠く「藤原」家にはっするというではないか。そして、その流れは「やまのうち」から始まり、秀郷、久豊、盛豊、一豊、続いている。
掛川城主までは「やまのうち」でいたという意見が多い。となれば
なぜ「やまうち」?
秀吉が天下を取った頃は、「天下はきらびやかなものが主流」、武士も
位とか、冠がほしかった時代、それに「藤原」と言えば、元は「公家」の出身。
室町時代や安土桃山時代、当時偉い連中は武士といえどもやたらと「冠、衣冠」を気にしていた。
そうなれば、もともと「公家」の流れをくむ「山内」は「やまのうち」
と読んでいたこともうなずける。
HP[山内一豊・アッパー]もアッパレ!!
良くそこに気付いたと思う。
歴史書によると、「山内」の先祖は「切腹」をしなければならない事態に陥っている.しかし、「高貴」の出か、「公家」の出か、昔が高い位の家系であった故か、その「切腹」等も幸運にものがれている。
これらの歴史的流れからして「長浜城主」「掛川城主」時代「やまのうち かずとよ」と呼ばれたのは充分うなづける話しである。
ではなぜ、今「やまのうち」が「やまうち」?
自分なりの推理をしてみる。
君は、漢字で「山内」と書かれているものを「やまのうち」とよべるかな? 誰も「やまのうち」とは呼ばないだろう。
高知で後世「やまうち」、そして「かずとよ」は「かっとよ」と呼ばれた
理由はここにあるのではないか?
晩年の「一豊様」はもう土佐の連中が「やまうち」と呼ぼうが「やまのうち」と呼ぼうがあまり執着しなかったのではないか?
「一豊」にしても「かっとよ」とよばれてもOKというような温厚な老人になっていたと思う。
それが、いつしか、土佐高知で「やまうち」が一般的になり、わざわざ「やまのうち」という呼び名も消えていったと考える。
これが、数百年もたって、今では「やまうち かずとよ」と呼び名を変えるべくNHKが考えたと考える。
従って、私には「やまのうち 一豊」も「やまうち 一豊」も両方とも
喧嘩両成敗で-セーフ。
戦国の世とは言え、酔狂な「秀吉」、豪華絢爛が好きな「秀吉」その中にあって、高貴な出の城主様が、余は「やまのうちかずとよ」だと名乗った方がどれだけ、戦国を勝ち抜いた武将として、国民に「夢やロマンス」があるか考えてみたら?
NHKも「やまのうち 一豊と千代の物語」とした方がよほど、国民の共感を得、人気をさらったと思うのは私だけ?
所詮は脚色された「ドラマ」ではなかろうか。
聞くとこるによると初回の視聴率も10%台で非常に悪かったとか、インターネットに出ていたよ。
多分、国民の共感を呼んでいないからだとおもうのは、私だけ?今からでも遅くない、国民がそっぽを向かないような楽しいドラマにして。NHKさま。
理由?
HP「山内一豊・アッパー」にも掲載されている文章がある。「やまのうち」の呼び方で「の」をいれたのは「偉い方」の出身だったのだろう。
これにうなずける。
歴史好きの私も、いろいろな作家の「山内一豊と妻」等に関する物語を読んだ。
「山内」家の出身は遠く「藤原」家にはっするというではないか。そして、その流れは「やまのうち」から始まり、秀郷、久豊、盛豊、一豊、続いている。
掛川城主までは「やまのうち」でいたという意見が多い。となれば
なぜ「やまうち」?
秀吉が天下を取った頃は、「天下はきらびやかなものが主流」、武士も
位とか、冠がほしかった時代、それに「藤原」と言えば、元は「公家」の出身。
室町時代や安土桃山時代、当時偉い連中は武士といえどもやたらと「冠、衣冠」を気にしていた。
そうなれば、もともと「公家」の流れをくむ「山内」は「やまのうち」
と読んでいたこともうなずける。
HP[山内一豊・アッパー]もアッパレ!!
良くそこに気付いたと思う。
歴史書によると、「山内」の先祖は「切腹」をしなければならない事態に陥っている.しかし、「高貴」の出か、「公家」の出か、昔が高い位の家系であった故か、その「切腹」等も幸運にものがれている。
これらの歴史的流れからして「長浜城主」「掛川城主」時代「やまのうち かずとよ」と呼ばれたのは充分うなづける話しである。
ではなぜ、今「やまのうち」が「やまうち」?
自分なりの推理をしてみる。
君は、漢字で「山内」と書かれているものを「やまのうち」とよべるかな? 誰も「やまのうち」とは呼ばないだろう。
高知で後世「やまうち」、そして「かずとよ」は「かっとよ」と呼ばれた
理由はここにあるのではないか?
晩年の「一豊様」はもう土佐の連中が「やまうち」と呼ぼうが「やまのうち」と呼ぼうがあまり執着しなかったのではないか?
「一豊」にしても「かっとよ」とよばれてもOKというような温厚な老人になっていたと思う。
それが、いつしか、土佐高知で「やまうち」が一般的になり、わざわざ「やまのうち」という呼び名も消えていったと考える。
これが、数百年もたって、今では「やまうち かずとよ」と呼び名を変えるべくNHKが考えたと考える。
従って、私には「やまのうち 一豊」も「やまうち 一豊」も両方とも
喧嘩両成敗で-セーフ。
戦国の世とは言え、酔狂な「秀吉」、豪華絢爛が好きな「秀吉」その中にあって、高貴な出の城主様が、余は「やまのうちかずとよ」だと名乗った方がどれだけ、戦国を勝ち抜いた武将として、国民に「夢やロマンス」があるか考えてみたら?
NHKも「やまのうち 一豊と千代の物語」とした方がよほど、国民の共感を得、人気をさらったと思うのは私だけ?
所詮は脚色された「ドラマ」ではなかろうか。
聞くとこるによると初回の視聴率も10%台で非常に悪かったとか、インターネットに出ていたよ。
多分、国民の共感を呼んでいないからだとおもうのは、私だけ?今からでも遅くない、国民がそっぽを向かないような楽しいドラマにして。NHKさま。
Posted by ではない? at 2006年01月11日 17:54
山内一豊の生誕地にしても愛知県一宮市、岩倉市の2説、また妻千代(まつ)にしても出自において美濃説と近江説その他があり定かでない。
近年美濃説が有力であるそうな。その岐阜県郡上市にある「山内一豊の妻顕彰会」では研究の結果正しいのは「やまうちかつとよ」としています。
ただ故18代元侯爵山内豊秋様が「やまうち」です。と名のられて以上ご本人に向かって貴方様は「やまのうち」でしょうと余りの失礼で滅相もなく言えない。
掛川城にある一豊の馬上像と軍扇は間違いなく「やまうちとよあき様」寄贈のものであり「やまのうち」さんではないと思うのですが。
べつに私はどちらでもよいのですが、「やまのうち」が正しくて「やまうち」は間違いと言うのはどうかと思いまして投稿しました。
NHKもやみくもに「やまうち」としたのではないと推測します。
掛川の人には納得できないでしょうが。こんな事でもめていたら一豊のイメージ、印象が悪くなるばかりです。
近年美濃説が有力であるそうな。その岐阜県郡上市にある「山内一豊の妻顕彰会」では研究の結果正しいのは「やまうちかつとよ」としています。
ただ故18代元侯爵山内豊秋様が「やまうち」です。と名のられて以上ご本人に向かって貴方様は「やまのうち」でしょうと余りの失礼で滅相もなく言えない。
掛川城にある一豊の馬上像と軍扇は間違いなく「やまうちとよあき様」寄贈のものであり「やまのうち」さんではないと思うのですが。
べつに私はどちらでもよいのですが、「やまのうち」が正しくて「やまうち」は間違いと言うのはどうかと思いまして投稿しました。
NHKもやみくもに「やまうち」としたのではないと推測します。
掛川の人には納得できないでしょうが。こんな事でもめていたら一豊のイメージ、印象が悪くなるばかりです。
Posted by 歴史好きの者 at 2006年01月12日 01:33
「やまうち」には違和感がありますが、私としては「やまのうち」じゃないからNHKに抗議する、とか、「功名が辻」は見ない、とまでは思いませんね。
学説的には「やまうち」なのに、なぜ滋賀県や、遠州地方では「やまのうち」と呼ばれているのか、というのはとても気になったのですが、ではない?さんの考察が一番納得できました。
「やまのうち」も「やまうち」もどちらも正しい、ということでしょう。
ただ、遠州地方では「やまのうち」と呼ばれていた、というか、今もそう読んでいる人が大半というのも、これまたひとつの歴史。
遠州の人が「やまのうち」は間違えで「やまうち」が正解だったんだ、と思いこんでしまうのは、これまたちょっと違うような気がします。
「やまうち」「やまのうち」どちらも正解なのだったら、NHKがなんと読もうが、自分としては「やまのうちかずとよ」と読み続けたいと思うのですが。
学説的には「やまうち」なのに、なぜ滋賀県や、遠州地方では「やまのうち」と呼ばれているのか、というのはとても気になったのですが、ではない?さんの考察が一番納得できました。
「やまのうち」も「やまうち」もどちらも正しい、ということでしょう。
ただ、遠州地方では「やまのうち」と呼ばれていた、というか、今もそう読んでいる人が大半というのも、これまたひとつの歴史。
遠州の人が「やまのうち」は間違えで「やまうち」が正解だったんだ、と思いこんでしまうのは、これまたちょっと違うような気がします。
「やまうち」「やまのうち」どちらも正解なのだったら、NHKがなんと読もうが、自分としては「やまのうちかずとよ」と読み続けたいと思うのですが。
Posted by 深 at 2006年01月12日 11:14
の、つま?
Posted by そほ3 at 2006年01月13日 15:26
知らない間に色々と情報が出てきましたね。
歴史は現在生存されていない方のお話ということで「ロマン」で私はまとめたいと思います。
つまり、後世に起こったことはその当時に生きていた人でなければ分からないにつきます。
誰も何が正しいとは言えないことと思います。
なので、一豊様について、私は遠州から始まった「やまのうち」説を私はこれからも信じて行きたいと思います。
それに歴史研究家であっても一豊様本人に会ってお話を聞いたわけではないですものね。
歴史は現在生存されていない方のお話ということで「ロマン」で私はまとめたいと思います。
つまり、後世に起こったことはその当時に生きていた人でなければ分からないにつきます。
誰も何が正しいとは言えないことと思います。
なので、一豊様について、私は遠州から始まった「やまのうち」説を私はこれからも信じて行きたいと思います。
それに歴史研究家であっても一豊様本人に会ってお話を聞いたわけではないですものね。
Posted by KAZUさま at 2006年01月15日 16:05
歴史、史実とゆうのはその本人から直接きいたお話、インタビューでなければノー、となれば日本、いや世界の歴史が信じられなくなります。
やはりそれなりの文献、証拠、遺物があってのコンセンサスだと思うのですが私も好きなロマンでは真実の歴史は語りえません。
今回の「やまのうち」「やまうち」にしたってたんなる言い伝えよりやはり過去の証拠にのっとってNHKが「やまうち」にしたものと思います。
本日1月15日の第2回放送でも「大蔵郷局」の一豊の駆け抜けた時代の書状(やまうちつしま殿)(山内対馬殿)を紹介していました。
静岡大学文学部教授の小和田博士(静岡県生まれ)が功名が辻の「時代考証」をご担当されていますがやはり「やまうち」としたようです。
番組を観ないとのショートしたお考えでなく深さんが言われているように個人個人で「やまのうち」で観たら良いと思うのです。
やはりそれなりの文献、証拠、遺物があってのコンセンサスだと思うのですが私も好きなロマンでは真実の歴史は語りえません。
今回の「やまのうち」「やまうち」にしたってたんなる言い伝えよりやはり過去の証拠にのっとってNHKが「やまうち」にしたものと思います。
本日1月15日の第2回放送でも「大蔵郷局」の一豊の駆け抜けた時代の書状(やまうちつしま殿)(山内対馬殿)を紹介していました。
静岡大学文学部教授の小和田博士(静岡県生まれ)が功名が辻の「時代考証」をご担当されていますがやはり「やまうち」としたようです。
番組を観ないとのショートしたお考えでなく深さんが言われているように個人個人で「やまのうち」で観たら良いと思うのです。
Posted by 歴史好きの者 at 2006年01月16日 01:54
歴史好きの者さんへ
私の親友に「やまのうち」さんがいて、以前お父様から詳しくお話聞きました。
掛川から始まったのは事実ですよ。
小和田博士は研究していると思いますが、絶対とは言えないと思いますよ。
ご自分の検証ですからね。
「やまのうち」さんも実在しているしね。
それに、歴史好きの者さんはご自分の意見ばかりを通そうとしていて、せっかくの一豊氏も気持ちよくないと思います。
このサイトは一豊氏の事を気持ちよく記載するものであって、歴史好きの者さんは、少し勘違いの載せ方をしているように思えます...
私はどちらの読み方も正しいと思いますので、あまりご自分の意見を他の人に押し付けないで欲しいですね。
私の親友に「やまのうち」さんがいて、以前お父様から詳しくお話聞きました。
掛川から始まったのは事実ですよ。
小和田博士は研究していると思いますが、絶対とは言えないと思いますよ。
ご自分の検証ですからね。
「やまのうち」さんも実在しているしね。
それに、歴史好きの者さんはご自分の意見ばかりを通そうとしていて、せっかくの一豊氏も気持ちよくないと思います。
このサイトは一豊氏の事を気持ちよく記載するものであって、歴史好きの者さんは、少し勘違いの載せ方をしているように思えます...
私はどちらの読み方も正しいと思いますので、あまりご自分の意見を他の人に押し付けないで欲しいですね。
Posted by スッキョン at 2006年01月16日 19:58
>スッキョンさん
>それに、歴史好きの者さんはご自分の意見ばかりを通そうとしていて、せっかくの一豊氏も気持ちよくないと思います。
>このサイトは一豊氏の事を気持ちよく記載するものであって、歴史好きの者さんは、少し勘違いの載せ方をしているように思えます...
>私はどちらの読み方も正しいと思いますので、あまりご自分の意見を他の人に押し付けないで欲しいですね。
失礼ですが、私にはスッキョンさんの方が自分の意見を他の人に押し付けているように思えますが。
第一、このサイトは別に一豊氏の事を気持ちよく記載するものではありません。
それから、ハンドルネームをいろいろと変えられるのもどうかと思いますが。
>それに、歴史好きの者さんはご自分の意見ばかりを通そうとしていて、せっかくの一豊氏も気持ちよくないと思います。
>このサイトは一豊氏の事を気持ちよく記載するものであって、歴史好きの者さんは、少し勘違いの載せ方をしているように思えます...
>私はどちらの読み方も正しいと思いますので、あまりご自分の意見を他の人に押し付けないで欲しいですね。
失礼ですが、私にはスッキョンさんの方が自分の意見を他の人に押し付けているように思えますが。
第一、このサイトは別に一豊氏の事を気持ちよく記載するものではありません。
それから、ハンドルネームをいろいろと変えられるのもどうかと思いますが。
Posted by 深 at 2006年01月17日 09:16